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二条河原落書

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「罪と罰と許しと」

決壊。(rabitさまへ)

「罪と罰と許しと」_a0037706_9534077.gif亀さま、お返事をありがとうございます。
どうやって辿り着いたのか、もう覚えていないのですが(^^ゞ
ブログサイトを漂っていたら出会っちゃいました。


>>ただ、「乗り舟」がとんでもない方向へ導かれることもしばしばで、
>>地下鉄に毒ガスが撒かれたり、ビルに飛行機が突っ込んだり。
>>さらに、こんなことを言うのは大変物騒ではあるのですが、
>>彼らのそうした、人間として許しがたい犯行でさえも、
>>「豊かで穏やかな人生を生ききろう」としてのことかもしれない。

そうですね。そういう罪を犯してしまう人生を歩んでしまう理由が、
「運命」なのか「自由選択の結果」なのかは、判定できないですね。
ただ、「さあ人殺しをしようか」と思ってこの世に生まれて来る人は
一人もいないと、私も思います。

人間の「罪と罰」と、被害を受けた側の「許しの心」とは、別々に
考えた方が良いのかもしれません。基本的には「罪を憎んで人を
憎まず」なのでしょうが・・・いざ、自分が当事者になったら、どう
反応するか分かりませんし。
十字架の上で、「神よ、彼らを許したまえ」と、自分の命を奪おう
としている人たちの安寧のために祈った、イエス・キリストの境地
には、なかなか到達できないでしょうね。

私が、人間の「罪と罰」について考える時にいつも思い出すのは、
古い仏教説話に残る、アングリマーラ(指鬘外道)の話です。
アングリマーラは、師匠の「100人(1000人という説もある)
殺せば、悟りを得ることができる」という言葉にまんまと騙されて、
殺人鬼となってゆきます。そして、最後の1人というところで釈尊
に出会い、憑き物が落ちて自ら犯した罪を自覚し、回心・出家しま
す。
しかし、修行のために托鉢に出ても、村中の人びとから「人殺し!」
と石を投げられ、施しなどもらえるはずもありません。傷だらけに
なりながら、彼は釈尊に泣きつきます。すると釈尊は「おまえは、
自分の過去の罪を滅ぼすために、尊い修行しているのだ。耐えよ」
と諭します。
釈尊のその教えに従ったアングリマーラは、村人からの非難と苦し
い修行に耐え抜き、ついには「阿羅漢」の境地にまで達したと言わ
れ、彼の出身地では、「郷土の偉人」として讃える記念のストゥーパ
(仏塔)が現在も遺っているとのことです。

私が思うには、人間の罪というものは、“目には目を”的な論理で
償い切れるものではなく、罪を犯した本人の「内心の問題」「心の
あり方の問題」まで問わなければ、解決しないだろうということ。
現在の司法制度における「懲役○年」とか「死刑」とかいう罰則で
は、本人が罪を償えるかどうかは分からない、というのが真実では
ないのでしょうか?
回心によって、罪を犯した人の心の汚れが清められ、死後に「天国
への門」が開かれる、という“希望”は、自分がその立場に置かれ
る可能性を考えれば、ありがたい「許し」の道です。

そして、被害を受けた側の心の悲しみや苦しみは、「犯人」が罰を
受けることによっては、決して癒されることはないと、私は思います。
それにはまた、別に救済の道が開かれなければならないのでは
ないでしょうか?



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by rabbitfootmh | 2004-10-06 10:37 | 日本の社会問題
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