二条河原落書

rakusho.exblog.jp ブログトップ

「優しすぎる? それとも…?」

21日に放映されたNHKの『クローズアップ現代』で、「“助けて”と言えない~共鳴する30代」というのを見て、なにか納得できない自分がいた。

 ◇クローズアップ現代
 2010年1月21日(木)放送 “助けて”と言えない ~共鳴する30代~
「助けて」。この言葉が言えず、孤独死した30代の男性を去年 10月にクローズアップ現代で取材し、放送した。番組では、 生活に困窮し、命に危険を及ぼしかねない状況になっても助けを求めない30代の姿を取材。彼らは、こうした状況になったのは、自己責任だと自らを責め、「助けて」の言葉を拒み続けていた。
この放送直後、インターネット上のブログでは書き込みが急増。わずか3日で2000件を超えた。その多くが30代で、驚くことに孤独死は他人事ではないと共感するものがほとんどだ。なかでも30代の女性に、共鳴する声が瞬く間に広がった。
一体、いま30代に何が起きているのか?番組では、ブログの声から、静かに広がる「助け」を求められない30代の実像を継続取材した。 (NO.2844)

 スタジオゲスト:平野 啓一郎さん(作家)

昨年10月に放映された、同番組の「30代のホームレス」を取材した内容に、「共感する」というブログの書き込みが急増したことを受けて、10月に取材した男性を追跡取材したものだった。

「全部において 何が悪いって 自分が悪い。
 何が悪い? んー自分が悪い。これ以外の言葉はない。」
「今だと 自分が頼っているだけになってしまうんで、…
 (友人が)助けてと言ってきても、自分は助けてあげれない。
 (助けてと言うことは)相手に100%負担をかけることになるんで
 それだけはちょっと できる問題ではないと思います」
と、そのホームレスの彼は言う。

「助けて」と言えない30代に共通する思いとは――

 「こうなったのは、全部自分の責任。
  自分の努力が足りないから、うまくいかない。
  自分が成功するためには、誰かを蹴落とさなければならない。
  自己責任で頑張らないといけない。自分の努力が足りない。
  負けを認めても、“希望”が見つからない。
  一度でも助けを求めたら、そこで“終り”だ。
  助けてもらうような“弱い”自分になりたくない。」(要旨)


「他人を蹴落さないと、自分が蹴落とされる社会」

これって、サヨク教育の“成果”のような気もするなあ…。
「切磋琢磨」という発想が、すっかり抜けてしまってる。
「受験で、自分が合格した時は、どこかの誰かが不合格になっている。自分の成功のために、“犠牲”になった人が一人いる」というような発想でしょう?

「自己責任」の意味を、ホームレス支援をしているNPOの奥田知志氏は「これは、助けたくない人たちの論理で使われる言葉だ」と「『それはあなたの問題だ』と言い切ることによって、『社会は手を貸さないよ。あなた自身が頑張るしかないんだよ』という、“助けないための理屈が、“自己責任論”だったと思う」と定義付けている。

同氏は「(今30代の)彼らが中学生の頃から、“自己責任論”の時代で、責任を果たせない人間は、人前にも、親の前にも立てない、という考え方に呪縛されている」のではないか、と解説する。

だが、「自己責任」の本来の意味は、そんなものではないはずだが、いったい誰がそんな使い方をし始めたのだろうか?

「自己責任」というのは、因果の法則によって、自分自身の考えや言動が原因(種)となって、ある結果(実)が現れるということであるから、悪い種を蒔けば悪い結果が現れるが、その逆に、良い種を蒔けば良い結果が現れる、ということ。
ただ、種が実るまでの経過には、もちろん他人や環境の介在も無いはずは無いが。

この番組を、中2の子といっしょに見ていたのだが、私が、「自分独りだけでは、絶対に生きられないのだから、困っている時は、助けてもらえばいいじゃない。それで、自分か立ち直ったら、今度はその恩返しをすればいいわけだから……?」と言ったら、中2に、「それでもやっぱり、助けを求めたら“負け”だと思うから、できないんだよ」と、彼らに共感を示すようなことを言われたので、考え込んでしまった。

そうか、“負け”なのか。
自分の弱さを認めることや、自分の失敗を失敗と認識することは、“負け”なのか――。

寂しくて、人との繋がりを求めたがるくせに、自分から働きかけることは、“負け”になるのか。

なんだか、「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせながら、ズブズブとトラウマの泥沼にはまってゆく、シンジ君みたいだねぇ。

「親に心配をかけたくないという気持ち。親の前での“自分”の姿を守りたい、子供の頃から知ってくれている“自分”の中に、苦労している姿を混ぜ込んでしまうことが嫌だという気持ちがあるのではないか? 親子関係が薄くなったのではなく、その部分はキレイなままでとっておきたいのではないか」と、平野啓一郎氏は言う。

でも、「人生80年」時代の今、織田信長が「人生50年」と吟じてから400年ほど経った今、人の寿命は1.6倍になっている。
長い人生の中で、失敗を恐れていたら、生きてるのが辛いのも当たり前かもしれない。

でも、自分自身が認めようが認めまいが、他人が気づこうが気づくまいが、失敗は失敗なんだが……。

大切なことは、失敗から学ぶこと、失敗から立ち上がって、新しい成功への道を歩き続けて行くこと――ではないのだろうか?
「成功とは成功するまでやり続けることで、失敗とは成功するまで やり続けないことです。
 失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するまでつづけたら失敗ではなくなる。(松下幸之助)」

「人に頼ると迷惑をかけるからいやだ」「他人に助けてもらわずに、自分独りで頑張り通す」という心は、一見、優しさから出ているように感じ、謙虚なようにも聞こえるが、その実は、すごく「傲慢」な心ではないのかと思う。

諸法無我――この宇宙の生命は、みんな網の目のように繋がっていて、何一つ、誰一人、切り離されて存在することはできないのだと、知ることが必要なのではないだろうか。

もちろん、「自助の精神」は必要だし、それ相応の「努力」も必要だ。その「自助努力」の結果は結果として、受け入れなければいけない。そういう意味での「自己責任」はある。

けれど、やっぱり、人は独りでは生きてゆけない存在だ――。
それを認めて受け入れないことには、始まらないのだろうと思う。


番組の後半で、平野氏が提言していたのは、「善意による寄付金」によって、困った人たちを支援した方が、税金によって助けられるよりも、彼らは利用しやすくなるのではないか。そういう支援ができるような寄付金制度を作ればいいのでは――ということだった。

それは、友愛・鳩山政権とは、まったく逆の方向のものですよね。
民主党は、「困った人をすべて税金で助けてやろう」という方向へ走っているが、それは一見優しそうだが、実は、『北風と太陽』の“北風”の発想で、「困ってる人のため、弱者であるあんたたちのためなんだから、文句を言わずに政府の言う通りの税金を納めろ」ってことになってしまう。

そうではなく、温かい“太陽”のような善意、相手を幸福にしてやりたいと思う気持ちからの寄付で、社会保障的な弱者救済をやろうという発想に切り換えよう、ということだろう。

そのためには、できるだけ「小さな政府」を、安い税金で運営してもらい、国民には、できるだけ自由な経済活動を許してもらって、もうけた中から自主的に寄付してゆく、という循環にしないとダメだろう。

「そんなことしたら、私利私欲に走って、もうけを独り占めにするヤカラが出て、正直者がバカを見るんじゃないか?」と心配する人が必ず出てくると思うが、ご安心めされよ。
死んだ後に、我利我利亡者の魂は暗い世界へ行って反省を迫られることになるし、善意を施した人は天国へ招かれて、仏神から“よくやった”と褒めてもらえるのだから。

前述の奥田氏は、番組の最後に「今は、絶望することも希望を見つけることも、すべて自己の中で完結する考え方が支配しているが、本当の希望というものは、自分の“外”から差し込んでくる光ようなもの。『君には希望がある』と周りの人か言ってくれたときに、『僕には希望があるかもしれない』と思える。それを“社会”というんだと思う」と言っていた。
小説家の平野氏よりも文学的な表現だが(笑)、納得できる説明だと思った。
 
 
a0037706_20432419.gif  「ブログランキング」
[PR]
by rabbitfootmh | 2010-01-23 14:28 | 日本の社会問題
line

日々のニュースに辛口コメントを


by rabbitfootmh
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite