二条河原落書

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「人間の”個性”の幅は、他の生物に比べてかなり広い?」


過激な(?)人権保護団体あたりが使う「障害も個性です」というキャッチ・フレーズは、どことなく胡散臭さが漂っているような気がするし、「個性」の定義が拡大解釈されすぎではないかと思うのですが、ただ、日本人がこれまで考えてきた「普通の人」像というのは、逆にあまりにも狭過ぎたのではないかと思う。

ADHD:「学校つらかった」84% 理解示さぬ教師、親--患者調査
 〔毎日新聞 2006年4月17日 東京朝刊〕
 学校に通うのがつらかった理由では、「友達との関係」「勉強」「先生との関係」などが挙がった。また、「つらい」と回答した人の92%は「先生がつらさを理解してくれなかった」と答えた。「のろま」などと心ない言葉を投げつける教師もいたという。ADHDの子どもに必要な支援を複数回答で聞いたところ、「親の理解」が72%で最も多く、「教師の理解」(64%)、「早期発見・治療」(63%)が続いた。「友達の理解」も47%が挙げた。
この調査は、『ADHDの成人当事者でつくるNPO法人「大人のADD&ADHDの会」(事務局・札幌市)が実施した。1~2月にインターネット上で呼び掛け、18歳以上の会員ら205人が回答した。』ということで、自分自身や家族が「ADHD」であることを認識しているごく少数の人たちが対象なので、一般論にはできないだろうし、「ADHD」という自覚や認識が無いまま、今現在も学校で苦労し悩んでいる人も、たくさんいるんだろうなとも思う。



戦後日本の学校教育の場では、「学齢期に達すれば、決められた時間どおりに教室に入り、お行儀よく自分の席に座し、みんなといっしょに、なんでも同じことをし、先生が期待する反応を一斉に示し、みんなが同じ速度で教えられた物事を理解し、問題を解き、1年毎に上の学年へと進級してゆく」ことが、当然のこととして子供たちに(またその保護者に)求められてきたわけだけれど、ちょっと立ち止まって考えてみれば、「そんなこと、ありえないっつ~のっ!」(あ、古いネタ)ということが分かるんですよね。

最近では、「ADHD」というと、「トットちゃん」こと黒柳徹子さんの名前が代表として上げられようになりましたけど、『窓際のトットちゃん』が大ブームになった頃は「ADHD」なんて言葉もなく、「それはごく例外的な子でしょう?」という認識のされ方だったと思う。
まあ、歴史的に有名な人物でも・・・エジソンとか坂本龍馬とか・・・そうじゃないか、と言われ始めているけど。

「ADHD」の子供のパーセンテージが、20~30年前と比べて増えているかどうか、たぶん昔のデータはないから比較はできないのだろうけれど、最近、あまりにも目立つから、「日本の社会が豊かになって耐えることを知らない子供が増えた」とか「親の躾けが甘くなった」とか、「兄弟の数が減って家庭で協調性が身につかない」とか、社会環境の変化が原因だという話が“常識”になりつつある。

でも、ほんとうにそうなのだろうか?

ここ1年の間、公○式で採点のアルバイトをさせてもらってるのだけど、20名くらいの小学生を見ていると、ほんとうに一人ひとり、違うことが分かる。
几帳面過ぎて時間のかかる子、答はサッサと出せるけれど、文字の書き方がめちゃくちゃ雑な子、分からないとすぐに質問にくる子、分からなくてもずーっと自分で考え続けてる子、勉強が好きな子、勉強が「罰」のように感じて1分でも早く家に帰りたいとそわそわしてる子、ちゃんと答えは合ってるのにいつも自信なさげな子・・・。

見事にバラバラの「個性」を持った子供たちを、40人まとめて一つの教室に入れて、たった一人の教師が一律の教え方でやってこられた(つもり)という方が、やっぱり「どうかしてる」んじゃないかと思う。

親や教師(指導的立場にある人)の仕事というのは、「どうすればその子が伸びるのか?」を見つけ出して、自立してゆけるように手助けしてやることではないのだろうか?
社会的なルールを教えて守らせる、ということ以外にね。


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by rabbitfootmh | 2006-04-23 13:13 | 子育て/教育
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