二条河原落書

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「民主主義とメディア、政府と国民」


「ネットは民主主義の敵か」 ネットは新聞を殺すのかblog(2005-12-08 08:10)

私にとって、ブログ世界を徘徊するいちばんの楽しみは、自分自身の思考回路に他の人の意見が入ることで「インスパイア」(笑)されて、新しい思考回路やアイデアが生まれることだ。

今朝一番に読んだ上記の湯川さんの記事には、
 現在の主流のメディア環境では、マスメディア企業が「一般的に知っておかなければならないニュース、情報」や「多くの人が必要としているニュース、情報」を「幕ノ内弁当」的に並べて提供してくれる。このニュースの「幕ノ内弁当」を食している限り、社会人として見ず知らずの人とも会話できるし、投票を通じて社会を動かしていくこともできる。少なくとも理想論的には、そうしたことが可能と言っていいのかもしれない。
とある。歌川令三氏の『新聞がなくなる日』にも、「定食」と「一品料理」の譬えで、新聞などの旧メディアとネットメディアを論じている文章があった〔同書P183~185〕。
「まずくても嫌いなものでも、セットして出された定食を食べれば、栄養が偏らないので良い。自分の好きなものばかり多種多様の一品料理から選んで食べるのは良くない」という主旨だ。

だが、今年の「ヒット商品」にまでなったブログの隆盛が無意識に訴えているのはおそらく、「ほんとうに定食や幕の内弁当だけ食べていれば、健康になるのか? ほんとうに栄養は過不足なく摂取できるのか? カロリー量も個々の人間に適切なのか?」という、旧メディアの存在の基盤をひっくり返すような問いかけなのではあるまいか。





最近、某コンビニでは、惣菜類の一つ一つにカロリー数が表示されているそうである。自分に必要なカロリー摂取量と求めている満腹感とを、自分で計算しながら一つひとつ選べるようにということらしい。
また、「健康ブーム」(ブームと言えないほど長く続いているが)のおかげで、巷にはさまざまな「健康」に関する情報が満ちあふれている。それらの情報に基づいて、消費者は多種多様な食品の中から、「自分に必要なもの」を選択しつつある。

つまりは、「定食や幕の内弁当を食べなさい」と言えるのは、食品を選ぶ側(消費者)に、食に関する情報がまったく入っていないことを前提にして、「栄養に無知無関心なあなたたちのために、ちゃんとしつらえてやっている」という、供給者側のある種の“傲慢さ”ゆえではないのだろうか。
20~30年前ならば、「賢者になりたければA新聞を読め」という言説に疑いを持つ人は少なかっただろうし、学校の先生の「天声人語を毎日読んで感想文を書きなさい」という宿題を、素直に有りがたくいただいて実践していたのだから。

次に、
 多くの日本人にとって、サンスティーンさんのこの指摘はあまりピンとこないかもしれない。新聞を読まなくても、テレビのニュースを見なくても、日本の社会の一員として生活していく上で支障を感じることはない。民主主義が崩壊するとも思えない。社会が分断するとも思えない。ニュースを読まなくても、オレは日本人だし、その事実は変わらない。もともと政治には関心がない。自分の票で政治が変わるとも思えない―。そんな風に考える人が一定数いるような気がする。
という文節を読んで思ったことは、日本はまだ「崩壊する」ほど立派な民主主義社会ではない、ということだ。

ダン・ギルモア氏の『ブログ 世界を変える個人メディア』(原題:We the Media)を、なかなか読破できずに苦しんでいるのだけれど(苦笑)、それは、アメリカのメディアの世界や政治の仕組みを、私自身がよく理解できていないことが最大の原因だと思われる。
日本で最近になって展開されてきているメディア論と、アメリカでのメディア論は、ぜんぜん中身が違う。アメリカでは、「メディア」(のシステムや影響力)と「政治」(あるいは選挙)とは、一対のものなのだということを、ギルモア氏の力作は教えてくれる。
先の衆議院議員選挙においても、選挙期間中にブログやHPの更新を禁止してしまった日本では、ちょっと想像力が及ばないのだが。

つまり、「メディア」あるいは「ジャーナリズム」というのは、民主主義国家のあり方とは、絶対に切り離して論じることができないものであり、今、アメリカでネットメディア(に携わる人びと)がやろうとしていることは、政治と癒着した旧メディアの「トップダウン方式」の情報の流れを、草の根から情報発信する「ボトムアップ方式」にすることで、より健全な民主主義社会を創れるのではないか、いや、創らなければならないだろう、という提案をギルモア氏はしているのだと、私は理解した。
民主主義国家でなければ・・・一党支配の独裁政権国家では、真の意味での「メディア」や「ジャーナリストの活動」は、存在しないのだ。

確かに、新聞を読まなくても、テレビのニュースを見なくても、親しい友だちとの絆をつなげるだけの情報を知っているだけでも、日本という国の中で“暮らす”ことに不自由はない。それは、湯川氏が事例に上げておられたサンフランシスコのチャイナタウンで暮らすアメリカ生まれの中国人と同じことなのかもしれない。
 つまり「多くの人にとって必要な情報を流す」というマスメディア的な機能を残すカギは、一般市民が社会の舵取りにどれだけ参加できるか、一般市民の側にどれだけパワーが移行するのか、にかかっているように思う。
「暮らして」はいても、その国の「国民」として十分な義務を果たしているのかどうか、怪しい人たちが、日本にはたくさんいる。(というか、「自分の票で政治が変わるとも思えない」という意見は、日本が“一応”民主主義国家であることを知らないのではないか・・・という気がするが。)

それでも、政治家たちのネット上の活動は封じられていたが、今回の衆議院議員選挙では、ブログで候補者の公約やマニフェストについて論じたり、新聞やテレビが取り上げるニュースについて論じたりする若者(とは限らないが)がかなりいたようで、その意見や情報のやり取りによって、「一票」の使い方を決めた人が増えたのではないだろうか。決して、新聞を読まない若者たちが「政治に無関心」であるわけではないことも、一部の人たちには実感として分かったと思う。

もう一つ、日本の旧世代の人たちが理解していない、ネット世界のパワーの秘密(?)がある。
歌川氏の「情報タコツボ人間」という言葉は、旧世代がネット世代と彼らが形成しつつある世界の姿を見誤っていることを集約して表現している。
旧世代の人たちは、インターネットの情報やサービスを利用する人たちが、「タコツボ」に引きこもって、そこから伸ばしたか細いチューブの先を水面上に出し、かろうじて呼吸をしているかのようなイメージを抱いているのではないのだろうか?

しかし、ウェブサイトのURLに使われている「WWW」の意味する「World Wide Web」(世界中にくまなく張りめぐらされた蜘蛛の巣)のシステムと、技術革新によって実現した高速大容量の通信回路は、一つの「タコツボ」から発信された情報が世界中に影響を与え、逆に世界中から集められた情報が、「タコツボ」の中の一人の人間を変えてしまうことも起きる。

あるいは、世界中の叡智が一つのテーマに沿って集結し、大きな問題を解決する力になることも、これから起きてくるのではないだろうか? アメリカの「9・11テロ」の時や日本でも阪神大震災で、インターネット上の“草の根情報”が救援活動や被害者の安否情報のやり取りをサポートしていたという話は、今になってよく耳にする。善意の人びとが、必要な情報を必要な人へと届ける「媒介者(メディア)」となったのだった。

・・・と、そろそろ知恵が尽きてきたので(苦笑)、最後にダン・ギルモア氏が紹介しているジョン・ロブ氏の言葉を引用して、今日のエントリーを終えることにする。
 いくつかの彼の提言の中から。「ペンタゴンの投書箱の考え方を拡大してような、フィードバックの仕組みをつくる必要がある。ただその仕組みは同時に、個々の問題解決に特化していくべきだ。マーシャル・マクルーハンが言ったことだが、教養のある大勢の人々の中には、あらゆる問題についてそれを問題とも思わない人たちがいるものだ。われわれが必要なのは、知識と洞察とをふるいにかけて吸い上げる、フィードバックの仕組みだ。たとえば、もし空港の安全対策に抜け道があることが分かり、そのための対策も知っているのなら、その情報を実行に移せる人々に伝える仕組みが必要なんだ」。
 情報の方向は、ボトムからトップへ。より正確には、周縁から中枢へ、だ。
 フィードバックの仕組みをかくだいするということは、その目的をより明確にし、目的に応じた情報集積ポイントを活用する「知識のネットワーク」をつくることだ、とロブは言う。
 〔上掲書P188~189〕


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by rabbitfootmh | 2005-12-08 13:14 | 日本の社会問題
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