二条河原落書

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「いい加減に“差別”と“区別”をきちんと区別しよう」


広島小1殺害:ペルー人容疑者の登録証は「偽造」
 〔毎日新聞 2005年12月3日〕
 国民登録局幹部のバルガス氏によると、同容疑者は72年に「ホセ・マヌエル・トレス・ヤケ」の名で出生登録。しかし、選挙登録する際、74年生まれの「フアン・カルロス・ピサロ・ヤギ」の名の出生証明書を提出している。この出生証明書も偽造とみられる。
・・・ということは、TVのワイドショーがペルーまで取材に行った“家族”も違う可能性がある? 週明けにどういう報道になってるのか、確認が必要なのでしょうか?

ようやく広島の事件に一応のケリがついたと思ったら、今度は関東で・・・。日本の社会はかなり“病的”になっている。

今「ブーム」になっている「昭和30~40年代」・・・『クレヨンしんちゃん』が劇場版『オトナ帝国の逆襲』(2001年作品)でいち早くその郷愁を描いたあの時代は、まだ「ヨソモノ」とか「見慣れない不審人物」などは、小さなコミュニティーの中でさりげなく、かつ注意深く“監視”されていたのだろうが、最近はそうした「ムラ」的な雰囲気は、ほとんど無くなってしまっている。

実際にそれを証拠立てるデータや論拠は無いのだけれど、もしかしたら、なんでもかんでも「差別反対!」という主張が社会に浸透したことの副作用として、「信用して良い人物」と「警戒が必要な人物」を、理性的に「区別」する能力まで、日本人は失ってしまったのではないのだろうか?




よく新聞の投書欄には、こういう物騒な世の中を憂えつつ、「せっかく近所の子供に声をかけても、怪訝な顔をして返事をしてくれなかったり、無視されてしまう」という(たいていはオバサンの)嘆きが登場する。
しかし、その「嘆き」は、いったい何に対しての嘆きなのだろうか? 物騒な世の中になったこと? 子供が大人を信用しなくなったこと?・・・・私には、それは「自分のささやかなお節介が否定されたこと」や「自分の存在を認めてもらえなかったこと」への失望感、あるいは、自己満足感が達せられなかったことへの“怒り”に近い感情ではないのか、と思われてならない。

良いではないか。たとえ、自分が声をかけた相手が笑顔であいさつを返してくれなくても、相手が自分のことをどこの誰かを知らなくても、また、自分自身もその子の名前をはっきりとは知らなくても、「このへんでよく出会う子だ」と、その顔を見知っていたなら、声をかければ良いと思う。
そしてもしも、「何か」が起きようとしている時、あるいはその子が何か「いたずら」をしようとしている時に、「いつも声をかけてくれるオバサン」の姿が見えることで、「事件」が未然に防げるならば、それで自分の普段のお節介は、十分に元が取れる・・・と思う。
「掛け捨て」の保険みたいなものだと思っておけばいいんじゃないだろうか?

今年、私は小学校のPTA委員になって、朝の登校時に家の近所の交差点に立って、子供たちの様子を見守るボランティアをしているが(毎日ではないけれど)、数人でふざけて歩道からはみ出して歩いていれば、「危ないよ!」と袖を引っぱり、寒くてズボンのポケットに手を突っ込んだまま歩いてる子には「転ぶと危ないから手を出しなさい」と言い、無視されたって、「おはよう」とあいさつするように努力している。

広島の事件でも、近所の人たちが何人か、少女が容疑者と話している姿を見かけていたと報道されている。誰か一人でも「早く家に帰りなよ。お母さんが心配してるだろうから」と声をかけていれば・・・と、私も思った。

「小さな親切、大きなお世話」なんていう皮肉めいた言葉が流行ったこともあったが、そういう発想はコミュニティの“温度”を下げてしまうものだろう。
「小さなお節介が、大きな親切になる(こともある)」と考えて、ますます「お節介なオバサン道」を極めたいと思っている。


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by rabbitfootmh | 2005-12-03 22:14 | 日本の社会問題
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