二条河原落書

rakusho.exblog.jp ブログトップ

「『華氏451度』の世界とブログ・ネットワーク」


多種多様なブロガーが「情報発信者」となって、この世に情報を提供し続ける世界というのは、いったいどんな感じになるのだろう。
紙の「書物」が発禁となり、一冊の所有さえ許されなくなった世界を描いた、『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ/著)〔松岡正剛の千夜千冊より〕では、人びとは、支配者(?)によってコントロールされた情報だけを視聴して暮らしている。知らず知らずのうちに、日常生活や感情さえも支配されて“生かされて”いる。

今の日本のメジャー・マスコミ報道はそれほどではないにしても、「日本国民はこのように感じ、考えなければならない」といった、“お仕着せ”の情報は多い。それを嫌う人は、個々人で幾分か信頼できそうな他のメディアやネット情報を仕入れて、自分自身で考えようと努力している。

だがもし、世界中の人びとを思想的に支配しようとする者が現れて、自分に都合の良い膨大な量の情報をネット空間で流し続けたらどうなるのだろうか? それを信じる人が増えていって、その“支配者”の思うように操られて生きるようになってゆくのだろうか?

そもそも、一人ひとりの人間が、ある情報を「真」か「偽」かと正確に判断することは、高率で可能なことなのだろうか?

ライブドアがフジテレビを買収しようとした騒動の時、サイトの「アクセス数(人気度)」によって「重要なニュースが決められる」ことへの恐怖心を、既存のメディア業界の人びとは訴えていたが、人間は「情報」(の真偽)に対してそんなに愚鈍なのだろうか? 多くの人が同じ情報に同じ時間だけ接していて、99%の人がその情報を信じるという状況になったとしても、「何か胡散臭い」と直観する人はいるに違いない。その「直観」をもたらすものとは、いったい何なのだろうか?

例えば、「ナザレのイエス」が現れて、ユダヤ教のラビらと論争したとき、それまでのユダヤ人社会では「100%の常識」であったことを、人びとから「100%の信頼」を寄せているラビたちの説教よりも「イエスの方が正しい」と、なぜ「知ることのできた人たち」がいたのか?

なぜ、いつの世にも、「王様は裸だ!」と叫ぶことのできる人が現れてくるのか?

一つとして同じもののない「人生の物語」を背負った人びとが、ブログというツールを通して情報発信できるようになり、趣味嗜好の似た者同士が仮想空間でつながり合い、ネットワークを拡げて、そして・・・「何を」すればいいのだろう?

「何を?」

その答は見つかるのだろうか? 見つけなければいけないのだろうか?


a0037706_0284542.gif 「ブログランキング」
[PR]
by rabbitfootmh | 2005-11-22 00:30 | 日本の社会問題
line

日々のニュースに辛口コメントを


by rabbitfootmh
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite