「事件は“突発的”に起こされるわけではない」
奈良女児殺害:発生1年 子供の安全願いハト100羽放す
〔毎日新聞 2005年11月17日〕
奈良市の小1女児(当時7歳)が誘拐・殺害された事件は17日、発生から1年を迎えた。加害者の男は、「父親」や「いじめられたこと」への子ども時代の恨みをあれこれ訴えているという。大阪教育大付属池田小学校で凶行に及んだ男と同じである。
遺体発見現場の奈良県平群町菊美台の住宅地側溝には午前9時すぎ、近くの平群北公園を管理する同町地域振興センターの呼びかけで公園利用者らが作った約1万2000羽の折り鶴が供えられた。
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女児が通っていた市立富雄北小では全校児童が参加して、命を考える集会が開かれた。
人の命を奪うことは、もちろん仏教の第一の「戒」となっている「不殺生」の罪を犯すことになり、仏教では「人としての倫」を外した者として「地獄へ堕ちる」と教えられている。仏からいただいた「命」を断つことは、その命がこの世で全うすべき人生修行と、それによって得られる「悟り」のチャンスを奪うことになる・・・という理由で、悪なのである(自殺もまた、自らの人生修行の放棄であるとして、悪とされる)。
「命を考える授業」って、どんなことが行われているのだろうか?
あなたの人生何かが足りない?――岡野守也の公開授業+α:なぜ人を殺してはいけないか
で、岡野先生が独自の調査を行われたその結果を見る限り、おそらく、今後の“悲劇”を予防できるような、十分な内容のものであるとは思われない(学校関係者の方の情報をいただきたいです)。
☆岡野先生の『なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、
宇宙の137億年の進化の営みが積み重ねられたすごいもの
なんだから、それこそ宇宙的・絶対的な意味があるんだよ』と
いうメッセージには、個人的には納得できかねるのだけれど(^^;
岡野先生のブログを読んであらためて気づかされたのは、子どもの問題に関して「親と学校」の影響については、あれこれ言われるのだけれど、なぜそこに「マスコミ」の影響が語られることが少ないのだろう・・・という大きなギモンだ。
「事件を報道するのがマスコミだから、当然のことだよな」ですませてよいものではないだろう。
毎日のように、人をイジメたり、殺したりする話のドラマやアニメがたれ流されていて、「私たちは傍観者ですから」と言えるわけはないだろう。2時間もののサスペンスドラマでは、かならず最後に犯人が「なぜこんな罪を犯したのか?」について、自分の過去の不幸や恨みつらみを告白して「私こそが被害者」と訴えるシーンがあるではないか。加害者の「主観」で、事件が語られることが、なぜ容認されているのだろうか?
一つひとつの事件の「特異さ」ばかりに目を向けさせるような報道も、いい加減に止めてはどうなのか? 事件の経過をこまごまと説明する必要もなかろう。薬物の名前も、テレビや新聞で大々的に後悔する必要があるのかどうかも疑問だ。
自宅の近隣で起きた事件も知らない日常生活に、遠く離れた殺人事件の詳しい情報が飛び交っているというのは、なにか異様な感じがしてならない。
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