二条河原落書

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「脳死は人の死なのか?」


臓器移植改正案:脳死はすべて人の死、まとまらず 与党
 〔毎日新聞 2005年4月28日〕

「法的脳死判定の自己決定について」(河野太郎)
 〔ごまめの歯ぎしり メールマガジン版 2005年4月21日(木) 〕
臓器移植法の改正の検討会。ヒアリングを受けて。
脳死は人の死だというのは譲れない。そうでなければ心臓移植のために心臓を摘出している医者は人殺しになってしまう。
だが、脳死は人の死とは思えないという人達の気持ちをくみ取らなければならない。そこで...
一、脳死は人の死である
一、脳死と判定されるためには法的脳死判定により脳死判定が必要
一、法的脳死判定をやるかどうかに関して、自己決定権を与える

つまり、脳死は人の死という大原則は曲げられない。しかし、脳死は法的に脳死判定をされる必要がある。臨床的脳死判定というものもあるが、これを何回やっても脳死ではない。そこで、人の生死を決める法的脳死判定を医者がやるためには本人が拒否していないこと、および家族が拒否していないこととする。
脳死は人の死ではないと思っている人は、脳死かどうかを判定する法的脳死判定を拒否することで脳死という死を宣告されることはなくなる
そして、臓器移植をするための脳死判定は死だが、そうでない場合は死ではないというダブルスタンダードも解消する。臓器移植をしようがしまいが、法的な脳死判定が行われ、脳死判定がされればそれは死である。もちろん、本人が脳死判定を拒否していれば法的脳死判定は行われないし、家族が脳死を死とは認めたくなければ法的脳死判定を拒否すれば脳死と宣告されることはない。

親族に対する優先提供に関しては、もう少し議論しようということになった。原則は禁止、だが肉親の情という特別な場合は良いのではないかという感情論が強い。配偶者と二親等というのが僕の考えだが、肉親の情というならば配偶者と一親等、つまり親子まででも良いのではという意見も。

何度読んでも、河野太郎衆議院議員の「死生観」というか「生と死についての哲学・思想」が読み取れない。




とにもかくにも、「“脳死は人の死”と法律で決めれば、移植に使える新鮮な臓器の供給源が増える」という論理を押し通そうとしているだけではないのだろうか?
『法的脳死判定をやるかどうかに関して、自己決定権を与える』と仰るが、決定すべき「本人(自己)」は、脳死状態になったら口もきけず、体も動かせず、意思表示ができないのだ。こんな文言は、詭弁というか、“目眩まし”にしか思えない。

そもそも、「人の死」は、それぞれの国の事情に基づいて「法律」で定めることが可能なものなのか? 突然の事故に遭って脳死状態になり、しばらく家族や知人と連絡がつかず、「その脳死判定、ちょっと待った!」とストップをかけてくれる人が現れなければ、さっさと臓器摘出されてしまうようなことが、起きないとも限らない(実際、ドイツで日本人が事故に遭い、両親が現地へ到着する前に臓器ドナーにされていて、“対面”できたときにはすでに・・・というおぞましい事例があった。海外での話だが)というような法律ができようとしているのに、なぜ、マスコミは黙っているのか? “誰か”に遠慮しているのではないのか?

宗教や哲学に力が無い日本であるからこそ、「人の死」について、軽々しく法律でその定義を扱うべきでは無いと思う。

◎上記の元記事が期限切れの場合は、下記へ跳んでください m(_ _)m
 ■毎日インタラクティブより


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by rabbitfootmh | 2005-04-30 01:04 | 医療/生命倫理
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